祖父母との同居によるトラウマ

 高校入学時点で私は内向的な人間だった。

中学では一人で黙々と勉強している時間が好きだったし、登校するときも一人でぼーっと考え事をしながら歩く時間が好きだった。友達のことはもちろん好きだったけれど、大人数と関わろうとは思っていなかった。少ない友達と気兼ねなくのんびり過ごすのが幸せだった。

ただ、なんとなく色んな人と仲良くできてみんなをまとめ上げるような、外向型の大人に憧れを持っていた。そういう人が正しいという考えが自分の中にあった。

だから知り合いがほとんどいない高校に入ったとき、自分を変えるために、いつでも明るくて、誰とでも会話ができる「外向型」の人間のフリをするようになった。

 でも長くは続かなかった。

最初は楽しかった。明るく振舞ったら色んな同級生が話しかけてきてくれて、仲良くなりたいと言ってもらえて嬉しかった。会話を楽しくできるように誰が何を好きなのか、覚えて勉強していくのも好きだった。ずっとアドレナリンが出ている状態だった。

 様子がおかしくなったのは高校1年生の秋ごろから。朝起きた時に起き上がる気力がなかった。その日は体調不良と言い学校を休んだが、それから学校に行きたくなくなった。自分でも気付かないうちに神経を使っていて、すでに充電が切れていたのだと思う。

 1日休むくらいでは良くならなくて、次の日は学校に行ったけれど、家に帰った時に祖父母に挨拶ができなかった。

高校に入学してから私は祖父母の家に住んでいた。私の部屋が玄関のすぐ横にあり、居間は廊下を進んだ奥にある。

居間まで行って挨拶して、学校どうだった?と祖父母に聞かれても笑顔で応えられる気がしなかった。不愛想な態度を取るくらいなら、話しかけない方が良いと思った私は、居間にはよらずそのまま自分の部屋に入ってしまった。

学校で何か嫌なことがあったわけではなかった。「挨拶ぐらいしなよ、お世話になってるんだから」と思う人もいるかもしれないが、できなかった。それくらい気力が削がれていたし、自分の精神状態を把握してコントロールできるほど大人でもなかった。

 その挨拶ができなかったことが本当に良くなかった。

挨拶しなかった罪悪感が私の中に残ってしまったことで明るく振舞えなかったことや、疲れたときにあまり会話せずに部屋に入ってしまう日があったことで「お世話してあげているのに不満気な孫」と思われてしまった。挨拶せずに部屋に閉じこもることが祖父母から見てすごく印象が悪かったようで、目を付けられるようになった。

 ちょっとしたことで文句を言われるようになった。他人の家で前髪を切るときのルールがわからず洗面台を汚してしまったときは説明する余地もなく怒鳴られたし、サラダに小さい虫が入っていて残したときも顔をしかめられた。「私はこんなにやってあげているのに何の不満があるのか」といった内容の祖母からの手紙が部屋の前に置かれていたこともあった。

ごみ捨ての日には居間でゴミを一つにまとめるため、自分の部屋のごみを居間に持っていなかければならなかったが、運悪くトイレのサニタリーボックスのゴミを持っていき損ねてしまった日には、他の親戚が集まっている場で大々的に「汚物はちゃんと捨てなさい!」と生理用品のゴミを目の前に差し出された。

私はいつも自分の部屋のゴミを居間に持って行っており、サニタリーのゴミは母が持って行っていた。その日母は入院中で、当時の私はいつも母が持って行ってくれていることも知らなかったし、祖母は既に閉経していてサニタリーのゴミを出さないことも、祖母がごみを出した人間が居間に持ってくるべきで、母がいないなら私が出すべきだと思っていたことも想像できなかった。何も言えず、固まるしかなかった。

仲が良かったときの関係性に戻したくて、明るく返事をしようと意識しても、いつ文句を言われるかわからないから怖くなってしまい、曖昧な反応しかできなくなっていた。完全に萎縮していた。その暗い反応も祖父母から見れば可愛くなかったんだと思う。余計イラつかせていた。悪循環だった。

そんなときに祖父母から「家族会議をしよう」と居間に呼び出された。

居間に行くと既に祖父母、退院した母、姉が円テーブルに並んで座っていた。祖父は「お互いに不満が溜まっているようだから、今後関係性をよくするためにも話し合いが必要だと思って集めた」と言った。その案は良かった。自分では今の状態を打破する方法が思い浮かばなかったし、祖父母も関係性を良くしたいと思ってくれているのかと嬉しかった。

 でも話し合いは思っていたものではなかった。一方的に祖父母に文句を言われる会だった。母、姉、私の順で文句を言われたけれど、特に私のターンになってからは酷かった。私の有罪が初めから決まっている裁判みたいだった。祖母は大きな声で文句を言い、黙ったままの私に「何が不満なのか」と机を叩いた。まとめ役の祖父は祖母をなだめるような振舞いは見せるが、穏やかな口調で祖母と同じように責めてきて、全く中立ではなかった。

 母も姉も何も言わなかった。姉は以前から誰かのために動けるタイプではなかったので助けは期待していなかったけれど、いつも母のお見舞いに行ったり、父に対する愚痴を聞いてあげて味方だと思っていた母が何も言ってくれないことが当時の私にはショックだった。

会議後に母が気遣わし気に「気にしなくていい」と言いに来てくれたけれど、この家に味方は誰一人いないと思った。この出来事で、私を利用するだけ利用して味方にはならない母には心を開かないし、この家を出たらもう二度と祖父母とは関わらないと決めた。

 もちろん母にも言い返せない事情はたくさんあったのだと思う。母も私と同様に祖父母の家でお世話になっている側だったから。でも祖父母に言い返さず、私にも良い顔をする母のことが信用できなかった。10年以上経った今でも「自分を多少犠牲にしても、病気の母を喜ばせたい」という私の思いを良いように利用されていたのではないかと考えてしまうときがある。

 家族会議を経て、お世話になってしまったらその人に逆らえないと学び、人を頼ることが怖くなった。一度嫌われてしまうと、何をしても怒られるようになりその状況を打破するのは難しいと学び、人の顔色を過度に伺うようになった。常に明るくいないと嫌われると学び、人と過ごす時間が苦しくなった。時を経て「全員がそうとは限らない」と頭ではわかっても、無意識に反応として出てしまうくらいこの考え方は今も深く刻まれている。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です