私の人生とパーソナリティ

幼稚園生

 緊張しやすかった。休み時間や家族といるときは元気に遊んでいるけれど、授業や英語の習い事では静かになる。不安感が強くて、「お雛様の絵を自由に描く」時間や「セーラームーンの塗り絵」の時間では自分が描くものが正しいのか不安で、周りの子の絵を見て総合的な絵を描いていた。他人の絵を覗いているのがバレて「見ないで」と言われたのが軽いトラウマで、すごく緊張しながら周りの子の絵を見ていた。なんで周りの子たちはパッと思いついたことを描けるのかずっと不思議だった。

小学生

 1年生の頃もやっぱり緊張しいで、休み時間は元気だけど授業では大人しい子供だった。授業であてられるのが怖くてずっと緊張していた。授業のときだけ声がすごく高くか細くなる、若干場面緘黙症のような症状が出ていた。2年生になってすごく仲の良い友達ができてから、他の子たちの目が気にならなくなって自然と治っていた気がする。特にクラスの子や先生に指摘されることがなかったので、大学生になって心理学の授業を受けるまであれが場面緘黙症だと知らなかった。

 勉強よりも外で鬼ごっこしているのが好きだった。家ではゲームばかりしており、母に何度も「勉強しなさい」と怒られていた。日能研の通信教育を受けていたけれど、文字を読むのが嫌いでまったくやっていなかった。逆転裁判が好きで何周もプレイして、好きなセリフをメモしていた。

 無表情で、人の気持ちを考えない行動をたまにする姉が何を考えているのかわからなくてずっと苦手だったが、姉の成績がいいことを母がずっと褒めており、「お姉ちゃんはすごい子なんだよ」と何度も言われていたことと、姉が中学に進学して学年トップで評価されるようになってから、尊敬できるようになった。

中学生

 勉強に没頭する。

 吹奏楽に所属していたが、自分の出す音がおかしくないかとずっと不安で、合奏のときは自分が楽器を吹けていたかわからない。息を出してはいたけれど、音が出ないように勝手に喉が息の量を減らしていた気がする。周りの子たちに音が出ていないことを気付かれていないかずっと不安だった。

 レクリエーションや合唱コンクールも苦手で、休みたかったが授業は受けたかったので、ケガの仮病を使っていた。合唱コンクールも合奏と同じで、自分だけみんなから外れた音を出すのが怖くて声を出せなかった。それが後ろめたくて、あまり大きな口を開けずに歌うふりをしていたら、やる気ないとみなされてクラスメイトに目をつけられて呼び出された思い出。周りの目が怖くて、でも人に合わせるのも苦手だったんだと思う。

高校生

 進学校に入学する。勉強が楽しかったので、高校になってもこの調子で勉強を続けよう思っていた。東大に入りたかったから。

 入学前に両親の別居が決まり、そのすぐあとに母の病気がわかったので、親戚の家に居候して学校終わりに母のお見舞いに行くことになった。当初は、学校に行って、勉強して、お見舞いならこなせると思ってあまり不安視していなかった。

 いざ始まってみると、親戚の家のルールに馴染めず、気遣い続けて疲れが溜まり、どんどん暗くなっていき、暗くなったことで親戚から「何か不満でもあるのか」と勘違いされ文句を言われるようになりさらにストレスが溜まるという悪循環に陥った。自分でも抜け出せる方法がわからなくなっていた。

 私の通っていた進学校は「部活、勉強、行事すべてこなす」ことが正しいという考え方だったが、私は部活に入らなかったので、クラスメイトからは「暇人」とからかわれ続けたことで精神が削られ、最初は笑って返せていたがだんだん心無いからかいに返事ができなくなっていた。クラスメイトが怖くて、人の目を見ることができなくなっていた。傷つくことが怖くて人と会話したくなかった。

 母も病気などのストレスを私にぶつけるようになっていたので、会話や看病はするけど本心は言わないようにしていた。

 色んなストレスから逃げるために、学校や家など人とかかわる時間は何も感じないようにぼーっとしながら話を聞いていたら、人の話を聞いて記憶することができなくなっていた。一人になれる時間はひたすらアニメを見たり、音楽を聴いたり、ラジオを聞いていた。

浪人生

 病気の母がいつまで生きているのかわからず、ずっとこのまま大学に入って、卒業して、社会人になって働いて母を養っていくことになるなら何も希望も持たないで生きていった方が楽だと思い、自分の進路や自分の感情から目をそらしていた。

大学生

 大学1年の終わりに母が亡くなってから、親戚とは一切関わらなくなった。社交不安障害になっていたので、精神科での治療を開始した。

 母が残してくれたお金で大学に通っていたが、ぼーっとしており授業も頭に何も入ってこないので、遅れを取り戻すため授業後も勉強しなくちゃと思うが、機械工学にまったく興味がないため何時間も机に向かっているだけで終わる毎日が続いた。勉強しなきゃいけない焦りと、何もできない諦めの感情が一日の間に何度も切り替わっていた。つらかった。

 なんでもいいから興味を持てることを片っ端からやっていこうと思い、演劇や歌の習い事をしたり、ボランティアに参加したりした。同級生はまだ怖かったから、ネットで知り合いのいないコミュニティを探した。その取り組みの一つとして行った「海外」が、私にとってはすごく居心地が良かった。海外では私は外国人で、みんなと違って当たり前で、その分自分のことを説明しなければいけない場面も多くあったけれど、周りの人に無理に合わせる必要がなかった。周りの目を気にせず自分で考えて生活を送ることで、久々に生きている実感を得られた。当時の私にとって一番の生きる希望だった。

 研究室に所属してからはあまりよくなかった。男性が多い閉じられた環境で、男尊女卑の考え方や心無い言葉をぶつけてくる人、また当時の恋人に海外留学を否定されたことで再び病んだ。

社会人

 自分でお金を稼いで、それを自分のために使う毎日がすごく楽だった。学生時代は母が残したお金が減っていくばかりだったので、当時は気づかなかったけれどお金を使うのにかなりストレスを感じていたんだなと実感した。集団での生活でもなくなったので、人に合わせる必要もなくなった。

 研究室生活で男性が苦手になっていたので、会社に入ってから同性の先輩と仲良くなれたのと、高校の同性の同級生と連絡を取るようになっていい影響があった。同性の友達と色んな話をして、研究室での出来事は普通ではなく、私の違和感が間違っていなかったことに気づけた。会社で失礼なことを言われたときには、無理して笑顔で返さないで距離を取れるようになった。

 仕事内容に関してはやっぱり機械に興味は持てなかったので、会社内で自分だけ劣っているような、数年後自分だけ足手まといになるんじゃないかという不安感はあったけれど、未来ではなく今に集中して生活するようにすればそのストレスも和らいだ。「お給料が働いた時間分のみ支払われるので、就業時間外は一切仕事のことを考える必要がない」という考え方をしていたので、仕事とプライベートをしっかりわけて休息が取れるようにもなった。


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