思考がクリアな日

朝、目を覚ますと思考がクリアになっている日がたまにある。今日がその日。

なにも予定がないのに、起きたときから活動的な感じ。起きたいと思える感覚。

この感覚を持ったのは高校1年生の春が最後だったから、どうしてもあの頃を思い出す。

けど、嫌な記憶としてじゃない。

普段だったら高校生の頃を思い出すのは苦しい。その嫌な思い出の中に自分が閉じ込められたみたいに、正しいかもわからない記憶をずっと思い出す。

けど、今日みたいに思考がクリアな日は、あのころの自分の行動を慰める気持ちになる。「あの状況でよく頑張ったね」「高校生であれだけできれば十分だよ」と自分が自分の母親になったように抱きしめてあげたくなる。そして同時に高校生だった頃の気持ちになって「そうだよね」「十分頑張ったよね」「死にたくなるような状況で、生きてるだけで十分偉かったよね」「私、全然最低な人間じゃなくて、大好きな母親のために頑張るいい子だったんじゃん」

当時周りの誰も認めてくれなかった私を、自分で認められる不思議な感覚になる。寄り添ってあげられる。そのときだけ幸せな気持ちになって、思考がクリアになる。今までぼんやり夢を見ていて、あのころから10年ぶりに目が覚めた気分だ。今まで何をしていたんだろう。

でもその時間はあまり長くは続かない。気持ちが入れ替わったように、「これからの人生を変えればいいんだ、まだ間に合う」と思っても、現実はそうはいかないと諦めてしまうからだ。高校生の続きをしようと思うと、まず好きにおしゃれをする。そしてクラスでは友だちとたくさん話して、授業では好きな科目に熱中する。大学も、自分の学びたいという気持ちに素直に従って自由に決める。そこまで想像して、現実を思い出してしまう。

今の私は、高校生の頃のように人と話ができない。不快にさせてしまうのが怖くて、拒絶されて傷つくのが怖くて、好きに話ができない。大学もそうだ。今から好きな文学分野の大学院に通うキラキラしたイメージを持つが、今の私ではもう頑張れない。友達もつくれない。就職できるかもわからない。修了できるかもわからない。収入もない。毎日不安を抱えて、思考がぼんやりしてしまうだろう。

この思考あたりから、またぼんやりした脳みそに戻ってしまう。当時の悔しい気持ち、寄り添ってもらえない悲しい思い出、絶望の記憶が自分の中で強すぎる。嫌なことを思い出して、頭が憎しみでいっぱいになる。みんな恵まれているだけなのに偉そうなこと言ってきて、私だってみんなと同じ側だったのに、勝手なことばっかり言ってきてムカつく。。と幸せな気持ちは気付かぬ内にどっかに行ってしまっている。

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幸せな気持ちを保持したい。どうしたら朝から幸せになれるのか、寝る前の条件があるんだろうか。(今回強いて条件をあげるなら、風邪の治りかけで体力が消耗してしまって、朝に倦怠感で起き上がれなくて授業を休んだこと。それが高校1年生の体調を崩して休んだ日と重なった。)

幸せだった高校1年の春からあとの記憶を消せれば、幸せの私のままなんだろうか。

幸せな記憶を箱にとどめて、毎朝その記憶を眺めれば、また幸せになれるんだろうか。

どうせ昔の記憶に閉じ込められるなら、嫌な記憶じゃなくて幸せな記憶に閉じこもりたい。現実との差が大きすぎて、今に絶望しそうだけど。

…そう考えると、昔の嫌な記憶を思い出すのは、今のほうがマシだと思えて今の自分を守ることになるから、悪いことでもないかもしれない?

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とりあえず、おしゃれから始めようと思う。


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