”誰に対しても平等に愛想良く振舞うべきだ”
高校生のときそう思っていた。
いつもにこやかでいるべきだし、相手によって態度を変える人は性格が悪い。どこでそんなことを教わったのか覚えていないけれど、それが正しい大人だと考えていた。私に限らずこの考えを持っている人は多いのではないかと思う。
高校生になって大人に一歩近づいた気分になった私は、自分が思う大人の振舞をするように心がけた。話しかけられたら必ず笑顔で応えたし、相手が話しやすいようフレンドリーに声をかけた。いつもニコニコしていた。
正しい行動だと思っていたけれど、これは私のためにはならなかった。
多少失礼なことを言われてもニコニコしてスルーしていたら、クラスメイトは私に何を言ってもいいと勘違いしたらしい。最初は多少のからかいの言葉だったが、段々暴言に変わっていった。「お前いてもいなくても変わんないんじゃね?ww」「部活入っていないし勉強もできないとか何してるの?ww」
みんなが笑っていたから、私も笑わないといけないと思った。
似たような言葉でも、からかいを含めたフレンドリーな言葉と、私を貶す言葉の2種類があった。精神的に疲れてしまって貶し言葉を無視したら、一部のクラスメイトから睨まれるようになった。その人たちからしたら、自分にだけ愛想悪いことがむかついたんだと思う。なんて自分勝手なんだと今なら思う。当時の私はフレンドリーな言葉と貶す言葉の境界線をうまく認識できなくて、主観で判断して無視してしまったため、その人たちに罪悪感を持っていた。笑顔で返せないし、貶し言葉は相変わらず言われる上に睨まれるため、余計に苦しくなった。あれは立派ないじめだったと思う。
そんな高校3年間を送ったため、私は信頼できる相手以外に愛想よくすることを辞めた。私をぞんざいに扱う人の顔色を伺って、精神を削るくらいなら、そのエネルギーを大事な人たちのために使いたい。
相手によって態度を変えるようになった私に対して、”性格悪い”とか”周りの人のことをもうちょっと考えな”と言う人もいる。その言葉に揺らぐこともある。自分の態度が誰かを傷つけているのかもしれないし、誰かと仲良くなれるチャンスを自分で捨てているかもしれない。でもその言葉は、私のための言葉じゃない。
性格良くいよう、周りの人のことを考ようと思って行動した結果、たどり着いた答えが”大切にしたい人にだけ愛想良くする”だった。それに、本音を言うと私はもう傷つきたくない。世間的に正しい人であるよりも、自分を大切にすることを優先させていいと自分に言い聞かせたい。
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余談だけれど、クラスメイトに”性格悪い”と言われたときは本当に腹が立った。愛想よく振舞った私のことをなめてかかって、攻撃してきたのは自分たちなのに、優しくされて当たり前だと思っているのが気持ち悪かった。こんな人たちのせいで自分の愛想が奪われたと思うと情けない気持ちになる。でも、仕方がない。社会に出てからもクラスメイトみたいな考えを持つ人はたくさんいたから、遅かれ早かれ”誰に対しても愛想よく振舞う”行動には限界が来ていたと思う。”愛想の悪い態度”は私を守る手段。良いとか悪いでは語れない。
愛想の悪い自分に罪悪感を持ってしまうときは、「愛想を捨てた分、自分と自分の大事な人を大切にしているんだ」と考えるようにしている。
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